僕の18年間には “悔しい思い” が詰まっている
「自分のプロ選手としての18年を振り返ってみると、やり切ったというより悔しい思いばかりしてきたなあという気持ちの方が強いです。95%は悔しい思い出。ひょっとすると95%以上かもしれません」
思いがけないことばに驚いたが、岡田優介は真顔だった。
「中学、高校、大学と一歩ずつでも上を目指そうと自分なりに頑張ってきて、トヨタに入ってからは力のある先輩たちに揉まれて成長できている実感もありました。思えば選手としてのスキルも体力も、もっと言えば公認会計士に合格したことも、それまでのバスケ人生はずっと右肩上がりだったような気がします。なかでも5年目にリーグと天皇杯に優勝して、生まれて初めて日本一になれたときの喜びは今でも忘れられません。きっとあれが(自分のバスケ人生の)ピークだったんじゃないかなと思ったりもします」
順調に上に伸びていた曲線がいきなり、それも一気に下降するのを感じたのはトヨタ自動車を退団し、つくばロボッツ(現茨城ロボッツ)への移籍を決めた2014年だった。発端はチームの運営会社の経営不振。財政難から選手の給料が未払いであることも判明し、チームの存続自体に黄信号が灯る事態となった。
当然選手たちにも生活がある。実情を知ってもらうために岡田は選手を代表する声をSNSに投稿してみたが、「この男が混乱を煽っているのではないか」「面倒くさい選手だ」などという心無い返しも少なくなかったという。
「まあそういう声は今までにもありましたから。公認会計士を目指す時間があるならもっとバスケに向き合えとか、自分が目立ちたいから選手会を立ち上げたんだろうとか。いろんな人がいるからいろんな意見があるのは仕方ないんでしょうね。腹は立つけど(笑)。でも、ロボッツの件では給料が出ないことはもちろん、バスケットができない時間が長引くことが問題でした。ブランクが長くなればなるほど当然コンディションは悪くなる。コンディションが悪くなればいいパフォーマンスができなくなる。それはメンタル面のダメージにもつながります。事実、僕もメンタルを含むコンディション不良で、あの時期だいぶ痩せてしまいました。正直、苦しかったです」
つくばロボッツを去ることを決心した岡田は当時監督を務めていた佐古賢一(シーホース三河チームディレクター)に声をかけてもらい4か月のみ広島ドラゴンフライズでプレーする。が、それ以降も頭上の雲はなかなか消え去らず、その後10年の間に5つのチームを渡り歩くことになった。
「当時の心境を聞かれたら、うーん、そうですね。さっき自分のピークはトヨタで優勝したときかもしれないって言いましたが、それを認めたくない自分もいて、チームが変わって、たとえ役割が多少変化しても、自分はまだまだできるはずだと信じてプレーしていました。ただ、昨日より今日、去年より今年と、何事もポジティブに変換してステップアップしてきた自分にとって、それまでの成功体験が(上手くいかないときの)足枷になっていた部分があったかもしれません。常に進歩して行くはずだったのに、その計算がちょっと合わなくなってしまった焦りというか、違和感というか。成功体験と現在地の間で葛藤する自分がいたのは確かです」
だが、それでもバスケット人生は続く。下を向いたままでいるつもりはさらさらなかった。
もう一度テッペンに行きたい
千葉ジェッツに1年籍を置いた後、京都ハンナリーズに移籍したのはBリーグが開幕した2016年。岡田はこの新天地でようやく本来の自分の役割を取り戻したかのように見えた。2年目のシーズンに西地区2位でプレーオフ進出を決めたときには胸に新たな目標が生まれていたという。