日本バスケット界はホームゲームという概念が定着し、どのクラブも試合の主催者として演出面に工夫を凝らす。クラブに限らず、Wリーグの主幹試合やBリーグファイナルといったリーグとしての興行でも、来場者をいかに楽しませるかという点に力を入れ、試合をより華やかにしている。
その中で、アリーナMCの存在もファン・ブースターが目を向ける重要な要素の一つ。Bリーグ全クラブとWリーグのクラブ型チームはそれぞれ固定のアリーナMCを配置し、彼らによる盛り上げがホームゲームの雰囲気作りの一端を担う。彼らのキャラクターがそのままホームゲームの特色になっていると感じられるケースさえある。
クラブとして専属のアリーナMCを初めて導入したのは、日本プロバスケットの元祖である新潟アルビレックスBB。発足初年度の2000-01シーズンから、ホームゲームには必ずアリーナMCの存在があった。日本における専属アリーナMC第1号となったのは、現在宇都宮ブレックスでアリーナMCを務めるMC SEKIこと関篤。アリーナMCとしてのキャリアはもう24年になるが、日本バスケット界初の専属アリーナMCははたしてどのようにして生まれたのか。
関は新潟市の出身。それも、女池小・鳥屋野中という県内屈指のバスケット強豪校で育ち、当時全国大会の常連だった新潟工業高に進む。しかし、当時の体育会的な風習が肌に合わなかった関は、そこで一度バスケットからドロップアウトしている。
「16歳でバスケを辞めてから荒れた生活をしてて、19歳まではもう単なる不良でしたね。でも、自分が途中でバスケを投げ出してしまったという後悔の念はいつまでも心の奥底に引っかかっていて、それが今のバネになったのかなぁ。三井寿の気持ちはよくわかる(笑)」
その後悔の念は関を突き動かした。高校の同級生で、その後順天堂大学を経て住友金属でプレーした浦上幸二郎(現・新潟アシスタントGM)の存在に触発されたということもあり、関は「まだできるんじゃないか? 自分はプレーヤーとして結果を出してないじゃないか」と再びバスケットに取り組むこととなる。
「練習でマッチアップしてた奴がプレーヤーとして頑張ってるし、自分が真剣に取り組んでたらどこまで頑張れたのかなって思ったんですよ。こんな自分でも受け入れてくれるところ、バスケットをさせてくれるところってあるのかなと悶々としてたんです。その頃、バブルの時代ということもあって洋服屋を始めたんだけど、21歳くらいのときにずいぶん年上の遊び仲間が『体育館を借りてバスケットしようと思うんだけど来ない?』って軽い気持ちで誘ってくれて、そこで火がついた。誰も経験者がいないようなレクリエーションみたいなものだったけど、それでも『面白い。やっぱりやらなきゃ』って。それで自分でクラブチームを探して、そこから週4で練習しました。その後自分でチームを作って、クラブ選手権とか新潟日報杯にも出て、県でベスト8までいったかな」