自分で選んだ道だから(前編)より続く
選手として山あり谷ありのキャリアを送ってきた青木勇人は、コーチになっても決して順風満帆ではなかった。現役を退いてそのまま残った横浜ビー・コルセアーズは、bjリーグ優勝を果たしたクラブでありながら経営難に直面。bjリーグ最終年の2015-16シーズンにはヘッドコーチに昇格したが、選手層の薄さは否めず、下位に低迷した。そしてBリーグがスタートした2016-17シーズン、青木は引き続き横浜BCの指揮を執ったものの、シーズン途中でチームを離れることとなる。
しかし、古巣の新潟アルビレックスBBにアソシエイトコーチとして迎えられると、大和證券と新潟でチームメートだった庄司和広HCとのタッグで、2018-19シーズンには地区優勝を果たす。その後新潟も低迷期に突入するが、2021-22シーズンにはやはり新潟時代のチームメートである新GM・竹田謙の肝いりで、横浜BCに再びHCとして招かれる。現役時代から何故か在籍2シーズン目にチームがステップアップすることが多かった青木HCは、ここでも復帰2シーズン目にクラブ初のチャンピオンシップ出場、天皇杯・リーグ戦ともにベスト4進出という成果を挙げたわけである。
コーチとして初めて目覚ましい結果を残したことを、そしてそれが地元にほど近い横浜BCであったことを、自身はどう感じていたのか。
「ビーコルは愛着のあるチームだったし、このチームが強くなって、関わってきた人たちが報われるところを見たいとずっと思ってました。僕はBリーグで最初に任を解かれたHCだし、bjリーグのときにはリーグで初めて、しかもシーズン中に人対人のトレードも経験した。いろんなことに耐性ができてるから、またビーコルに来ても『何が起きてももう大丈夫』と思ってるところはあった(笑)。新潟の地区優勝もそうだけど、そういう場に当事者としていられるというのは、外で見てるよりも大切なこと。どうやってその場に身を置けるかというのは自分1人の力ではできないし、いろんな引き合わせがあってのことですけどね」
こうして大きなステップを踏んだということは、コーチとしての適性があったという証拠だが、それは青木自身が自らを信じて道を切り拓いてきたからであり、それと同時に自分を信じてくれる人がいたからでもあるということは、常に本人の心中にある。
「コーチの仕事が合ってるかどうかは、人が決めること。オファーがあって受けるもので、でも何かしら可能性があると思ってオファーをしてくれたと思うし、それが続いてここに至っている。それは自分が選択してきたおかげかなというのと、自分の可能性を見出してくれた周りの方への感謝と、両方があります。昔のことを考えると、こうしてバスケットのプロのコーチをするのはなかなか想像できないけど、今までやってきたのが良かったんだなと思うし、この仕事ができることは誇らしい。たぶん昔の知り合いからすると誰も想像できないキャリアで、バスケットの第一線にいなかった人間がこうやってHCをやるなんで誰も思ってなかったと思います。『あの青木が?』って(笑)。それはそれで、少しでも周りの人の楽しみになってくれていたら良い」