「まさかこんなことになるとは想像もしてなかったですよ」
三木力雄がこの約半年の間に置かれた状況は、この言葉が二つのケースに当てはまる。まず一つ目は、金沢武士団のヘッドコーチに就任したことだ。昨シーズンB3に参入した立川ダイスのアソシエイトコーチの職を1シーズンで辞し、地元に帰って京都ハンナリーズのユース事業部の職に就いたのが昨年7月。「この年だから、もうトップチームはないかな」と思いながら過ごし始めたが、3カ月も経たない頃に金沢の中野秀光代表から電話が入る。bjリーグやB3リーグでの仕事が長かった三木は、中野代表や原島敬之アドバイザーとかねてより交流があり、黒島秀介監督とは石川県国体成年チームで接点があった。
「中野社長がいて、原島さんも行ってて、黒島先生は僕が選手で国体に出たときに女子の監督さんだったので、3人とも知ってる方だったんです。ご存じのようにHCが抜けて大変だというところで三者協議をしたときに僕の名前が挙がったみたいで、それで『三木さん助けてくれ』と電話がきたわけです。ハンナリーズに入ってまだ2、3カ月の頃ですよ。それで僕も一度は『いやいや無理ですよ、他を探してください』と言ったんです」
クラブチームのRBC東京や警視庁、東京医科歯科大学など、東京近郊で様々なチームのコーチを務める傍ら、会社経営にも携わっていた三木は、夫人を関西に残して単身生活が続いていた。京都に身を移したことで久しぶりに一緒に生活できることを喜んでいたところでもあった。
しかし、U15のアシスタントコーチという肩書も持ち、引き続きコーチングに携わることもできていたはずの三木が「悶々としていた」ことを知ってか知らずか、中野代表は簡単には諦めなかった。
「その後も熱烈なラブコールで(笑)、結局最後に折れたというわけじゃないんですが、ハンナリーズではU15の現場にも行ってたし、いろんなことをやらされるのかなと思ってたら、遠征の手続きとか親御さんへの月謝の請求とか、中の細かい仕事が結構多くて。ちょっとこれは自分の仕事とは違うなと思ってたところに、そんな話がきたんですよ」
最終的に金沢のHCを引き受けるに至ったのは、もちろん金沢の窮状を救いたい気持ちもあったが、最大の理由はやはり、長年従事してきたバスケットボールのコーチという仕事の魅力だった。特に、埼玉ブロンコスではHC以外にも様々な肩書でベンチ入りし、日本におけるプロバスケットボールの黎明期を目の当たりにしてきた。第一線に身を置くことが、三木にとっては自然なことだった。
「地域リーグではHCをやってたので、コーチングから全く離れた状況ではなかったですし、その間に八王子に行ったり立川に行ったり、何となくプロに関わりながらというのもあったので、僕としては『最後はプロで終わりたい』というのがあったんですよ。この年齢ながら自分を試したいというのがあって、それでチャレンジしようと思って金沢に行くことにしました。おかげでまた単身です(笑)」