むかし、むかし、あるところに『ゴールデンエイジ』と呼ばれる集団があった。
1984年度に生まれた彼らの中には『関西弁のボキャブラリー百貨店』、『公認会計士シューター』、『左利きのフィジカルお化け』など様々な個性が顔を並べた。
また、ある者はただの奇天烈な物書きであった。
この者たちは民主主義の原則に則って数の力で多方面に幅を利かせ、日本バスケットボール界を席巻しそうでしなかった。
この団体を構成する一人に太田敦也という男がいる。
太田の立ち位置は『竹内家の日陰』だった。
別名を『竹内世代』とも称されたこの年代に、長きに渡って君臨してきた双子。
その圧倒的な知名度と非凡な才能は、常に太田の存在感を希釈し続けた。
物書きは思った。
「太田には野心が足りていない。人が良すぎるのだ」
人と話すときは笑顔多め。
練習は懸命に取り組む。
いついかなるときも愚直に励むその姿勢には悔しさの滲むところがないように思えた。
ポジションを同じくする双子が先んじることを受け入れてしまっているようにも見えた。
もっとこう、意地でも点取ってやる、とか、吹っ飛ばしてやる、とか。
なんかそういう荒々しさが双子に対してあってもいいんじゃないの?
「やっぱりあいつらが活躍すると悔しいし、マッチアップして点取られたら『次は意地でも点取ってやる』とか、『吹っ飛ばしてやろうかな』って思ってる(笑)」
持ってた。
見事なまでの荒々しい対抗心。
今でも双子と対戦する試合では「いつも以上にスカウティングを見ちゃったりするわな」とも語る太田は、いつも通りの笑顔を絶やさぬまま胸の内を明かしてくれた。
「(竹内兄弟のことを)意識はしてる。マッチアップしてると特に公輔(竹内公輔、宇都宮ブレックス)の方が(負けたくない)ってのはあるかな。まあ譲次(竹内譲次、大阪エヴェッサ)もあるけどね、もちろん。
(自分も)大学までは代表候補に選ばれて、合宿に呼ばれたりしてたんだけど、あいつらはそのときすでに代表としてプレーしてて。自分は(所属チームでも)そんなにプレータイムもないっていう状況だった。公輔と譲次は世界大会とか出てたじゃん(2006年世界選手権)。ドイツとかと戦ってて。それを自慢げに喋ってるのを聞いて(笑)、めっちゃ悔しくて。そういうのもあって和雄さん(中村和雄)のところで耐えられたのかなっていうのもあると思う。
bj(リーグ)だったから対戦する機会はなかったんだけど、どっかで対戦したときには負かしてやりたいな、みたいな。そういうのはあったかな。」
太田に秘められた熱量に触れた僕は、ニヤつきが抑えられなかった。