日本一を争い続け、そのための努力を続けた学生時代
年明け早々、富山は大雪に見舞われた。リモートではあったが、ルーキーへの取材が実施できる状況なのかと心配する。約束の時間を迎えると、「午前中まで雪かきをして、ようやく出て来られた感じです」と練習を終えた松脇圭志が画面の向こうから元気な姿を見せてくれた。
松脇がバスケに出会ったのは、小学2年になる少し前のこと。先にはじめていた二人の兄を追い、必然的にのめり込んでいく。バスケ王国・福岡で揉まれたミニバス時代、『プロになりたい』という夢が芽生える。その後に進んだ西福岡中学は、全国区の強豪だ。
「全国大会が当たり前のチームに行ったことで、試合を見るだけでも多くの経験ができました。また、それを見たからこそ、自分も試合に出たいと思うようになりました。そのためにも練習を一生懸命やらなければならず、もっと突き詰めなければいけない課題が常に出てきました」
これまでのバスケ人生の中でも、中学時代が一番シューティングをしていたそうだ。「スポットシュートを1日2〜300本。休みの日は練習時間が長くなるので5〜700本、多い時には1000本以上打っていました」と努力の時間を費やす。これは松脇だけが特別ではなく、チームメイトもそれぞれの武器を磨いていた。その結果、日本一を経験することになる。
チームメイトの山﨑純と一緒に福岡を出て、茨城の古豪である土浦日大への進学を決めた。全国常連校ではあったが、勝ち上がることに苦戦していた当時の土浦日大に対し、「全国でも上位を目指したいという目標が年々強くなっていました」と情熱を注ぐ。中学時代と同じく高みに向かって打ち込んだ結果、3年次のウインターカップでは22年ぶりとなる決勝進出を果たした。3連覇した明成の前に敗れたが、掲げた目標はしっかり達成している。
高校卒業後、系列校である日本大学へ進み、そこには土浦日大の1つ先輩である本村亮輔(熊本ヴォルターズ)がいた。高校へは山﨑とともに、大学では本村の他にも土浦日大の杉本天昇(群馬クレインサンダーズ)が後に続くなど、常に松脇の進む道には相棒がいた。それは必然だったのだろうか?