寺嶋良が京都ハンナリーズと契約を交わしたのは東海大学4年次の2019年12月。デビュー戦の出場時間はわずか1分だったが、年明けの試合から大幅にプレータイムを伸ばし、同時に攻め気あふれるプレーでチームを上昇気流に乗せた。その活躍度の大きさは、京都に加入して3カ月足らずで選出されたリーグの『2月MVP』が物語っている。しかし、今シーズン、ヘッドコーチをはじめ選手が大幅に入れ替わった京都は黒星先行の苦しい状況が続く。後半戦に向け、ここからどう新しいチームを構築していくか。23歳の寺嶋が副キャプテンに任命されたのは持ち前の負けん気がもたらす〝エナジー〞を期待されてのことだろう。担った重責を「プレッシャーとせず、モチベーションとしたい」と言い切る寺嶋の顔にはプロ1年生とは思えぬ頼もしさがあった。
中学生のころから将来の夢は『バスケのプロ選手』
── 寺嶋選手は東京出身ですが、京都の洛南高校に進まれました。その経緯を聞かせていただけますか?
梅丘中学の先輩である伊藤諄哉さんが洛南に進学されて、その後を追いかけて行ったという感じですね。そもそも自分が梅丘中学に入ったのも諄哉さんに声をかけてもらったのがきっかけなんです。公園でバスケしているときに「おまえも梅丘に来なよ」って。
── わざわざ声をかけるからには何か光るものがあったんでしょうね。
それはわかりません(笑)。ただ当時から負けず嫌いだったので、そういうのがプレーに出ていたのかもしれません。
── 負けず嫌いの小学生だった?
はい。母に言わせると幼稚園のときからすでに負けず嫌いだったらしいです。僕が通っていた幼稚園は朝の9時に門が開くんですけど、門から園舎の間にちょっとしたグラウンドみたいなのがあって、そこを通って園舎まで行くんですね。で、園舎の前には旗が立っているんです。僕はどうしてもその旗の下に1番乗りしたくて毎朝門が開くのを8時半から待ってました。
── 30分前から開門を待っていた?
はい、そうしないと1番で旗の下に行けないので(笑)。幼稚園の年長になってからはずっとそれを続けていて、今でも母は「あんたの負けず嫌いに付き合わされる私は大変だった」と言ってます(笑)
── 開門と同時に旗を目指して猛ダッシュする〝チビ寺嶋良〞が目に浮かぶようです。その負けん気の強さは洛南高校でも発揮されましたね。
そうですね。洛南に行くときは強豪校でバスケできることがうれしくて、親元を離れる淋しさとか、初めての土地に行く不安とかは全然なかったです。ただ、入ってみると周りはスーパースターばかりで、試合に出るためにはその人たちと競わなきゃならない。ほんとに毎日の練習が勝負で、自分の中にも自然とそういう意識が生まれました。
── 試合に使ってもらえるようになったのは?
1年生の冬ぐらいですかね。3年生が卒業したあとの新チームでシックスマンみたいに使ってもらえるようになって、それからちょくちょくスタメンに起用されるようになったという感じです。でも、決して順調だったわけではなくて、細かい挫折はいろいろありました。