part1「バスケ人生で初めての大ケガ」より続く
努力は嘘をつかない
「青学(青山学院大学)の2年生のときに経験したこと。それが今も自分の核になっていると思います」──これまでのキャリアを振り返って、ターニングポイントになったことがあれば教えてくださいという質問に対して、しばし考えたあと広瀬はそう返した。出身は島根県松江市。地元の松江東高校から青学大に進んだ。「練習はきつかったですけど、自分なりに頑張って1年のころから試合に出してもらっていました。でも、2年になったときにこのままじゃだめだと言われることが多くなり、トレーナーの吉本(完明)さんに付いて別メニューのトレーニングをやるようになったんです。チーム練習が終わったあとに自分だけ残ってやるわけですが、これがもうほんとにめちゃくちゃきつかった。でも、そのきついトレーニングが心技両面で自分を変えたような気がするんです」
このときのことは当時の監督、長谷川健志もよく覚えている。「大学の4年間を考えると、1年のときは比較的楽なんですよ。思いっきりやってミスしても先輩たちがカバーしてくれる。だけど、2年になるとそうはいきません。これから自分がチームの主軸になっていくことも考えなきゃならない。広瀬の場合は1年下に荒尾(岳・広島ドラゴンフライズ)が入ってきたことで尚さら自分の持ち味を磨く必要があった。鬼軍曹と呼ばれた吉本トレーナーのメニューをこなすのはかなり大変だったと思いますよ。でも、よく食らいついていました。毎日めげずに頑張っていましたね。2年の後半からまたスターターとして起用されることになったのはその成果。努力で勝ち取ったものだと思っています」
長谷川と同様、広瀬の努力を間近で見ていたのは1年先輩の岡田優介(アースフレンズ東京Z)だ。「(広瀬)健太の最初のころの印象は、上手いけど特別シュートが入るわけじゃないし、身長が特別高いわけじゃないし、なんていうか、それほど際立ったものがあるという感じではなかったです。ただし、練習に取り組むまっすぐな姿勢はすばらしかった。その姿勢があったからこそ持ち前の身体の強さや走力に磨きがかかり、スキルもどんどんアップしていったのだと思います」。3年、4年とチームを引っ張る存在となった広瀬は4年次の関東大学リーグで青学大を優勝に導き最優秀選手賞を手にした。
「いろいろ考えてみても、やっぱり自分のターニングポイントは2年生のときのあのトレーニングだと思うんですね。毎日、毎日苦しくて、今、もう一度あれをやれって言われたら『嫌です』と言うかもしれませんが(笑)、あの日々があって今の自分がある。間違いなくあの時間が選手としての核を作ってくれたと思っています」