1992年、バルセロナオリンピック。「今まで生きて来た中で一番幸せです」と、水泳200m平泳ぎで金メダルに獲った当時14歳の岩崎恭子選手の名言を思い出す。平成の三四郎こと古賀稔彦選手、そして後に格闘家としても活躍した吉田秀彦選手の金メダルに日本中が熱くなり、マラソン有森裕子選手のさわやかな銀メダルにも胸を打たれた。
一方、バスケは日本代表が出ていないにも関わらず、連日ワイドショーでも取り上げられるほどの異様な盛り上がり。熱狂の主は“ドリームチーム”。オリンピックで初めてプロ選手の出場が解禁となり、NBAが世界デビューを果たしたと同時に、歴史を開いた瞬間でもある。
ドリームチーム、マイケル・ジョーダンらスーパースターを擁するアメリカ代表の活躍にバスケに縁遠かった方々たちもすぐに魅了されていく。全試合100点ゲーム、30点差以上離して圧勝。次々と繰り広げられるスーパープレイに、多くの人たちが虜になった。そして、日本にNBAブームが到来したのである。
ワンサイドゲームゆえに、試合内容は大味。NBA選手がオリンピックの舞台に出てることだけが話題を独占。ドリームチームの全12選手の名前はスラスラと出て来ても、対戦相手の記憶がない。強いてあげるならば初戦、アンゴラの選手たちが試合中にも関わらず写真を撮りまくってたなぁ〜。その程度。しかし、ひょんなことから、1992年を思い出す機会がやって来た。
とある日のリンク栃木ブレックス戦の試合前、キャプテン竹田謙選手と立ち話をしていたときのこと。アンタナス・シレイカHC体制となった2シーズン目のことや、今シーズンは英語も堪能なリトアニア人のダリアス・ディマビシャスAC(アシスタントコーチ)が来たことでさらに理解度も増しているのではないかという話をしていた。
「シレイカHCのバスケットは本当にハイレベルですごく勉強になるし、求められていることは難しいけど日々の練習から楽しい。昨シーズンからコーチと選手はうまくコミュニケーションは取れていた。そういえばダリウスは、リトアニア代表としてドリームチームと対戦してるんだよ」
このアシストがきっかけとなり、すぐさま1992年8月6日に行われた準決勝アメリカvsリトアニア戦を見直した。便利な世の中になったもので、FIBAサイトにはBOX SCOREがアーカイヴされている。
前回大会となるソウルオリンピックを制した旧ソビエト連邦の金メダリストを数多く擁するリトアニアだったが、結果は127-76でアメリカが快勝。途中からコートに入ってくる緑のユニフォームの7番をつけた若者が、ダリアス・ディマビシャスACだ。体の厚みが倍近くあるのではないかと思われるカール・マローンをマッチアップする姿が映される。当時24歳。まもなく4月8日に46歳の誕生日を迎えるディマビシャスACに、ドリームチームと同じコートに立った22年前を振り返っていただこう。