※本記事はバスケットボールスピリッツのWEB化に伴う、2016年11月末発行vol.3からの転載
初めて富士通のユニフォームに袖を通したのは2001年。新人、中堅、ベテランと呼び名は変わったが、その中で三谷藍は常にチームをリードする存在であり続けた。38歳で迎えた16年目のシーズン。「正直、しんどいですよ」と本人は笑うが、若手に交じってハードな練習をこなす姿に衰えは感じられない。
── 三谷選手は専修大学から富士通に入られたわけですが、当時、大卒で実業団入りというのは珍しかったのではないですか?
そうですね。私の場合、当時は将来のことを深く考えていなくて、ただ大学に行きたくて行ったというか、大学生活を経験してみたかったんです。バスケットだけでなくいろんな意味で充実した4年間を過ごすことができました。友だちもたくさんできたし、バイトで2年間ウエイトレスもやりましたし(笑)。
── 富士通に入社した経緯は?
オファーがあったわけじゃないんです。最初は普通に就職活動をすることも考えていたのですが、会社説明会で寝ちゃったりして、どうも就活は自分に向いてないなと思うようになりました。それでバスケットを生かす道があるならやってみようと思ったんですね。富士通には大学の先輩がいましたし、当時は(リーグ)2部だったので自分の力でもそこそこできるかなと考えてこちらからお願いしました。今思えば相当甘かったですね。
── 想像とは違っていた?
大違いでした。というのも、私が入った年に李(玉慈)さんが監督に就任されて練習がめちゃめちゃ厳しくなったんです。社会人ってこういうものなんだな、お金をもらってバスケットをするのはこれくらい厳しいものなんだなと痛感しました。1番辛かったのは2年目のシーズン。体調を崩して何もかもうまくいかなくなってしまったんです。毎日、毎日怒られて、そのときは辞めることも考えました。それでも辞めなかったのは厳しさの中にも李さんの自分に対する期待が感じられたからだと思います。やっぱりそれに応えたいという気持ちがあったし、そのためには逃げちゃいけないと思ったし。苦しかったけどそれを乗り越えることで自分なりに少しは成長できたような気がします。
── 26歳で初の日本代表にも選出されました。
でも、あのときは試合には全然出られなくて、練習も1人だけずっと走っていたんですよ。陸上部か? と言われるほどただひたすら走るだけで、正直悔しかったです。ただ、そのあとから少しずつ試合に使ってもらえるようになって、全くダメなところからそういうふうに段階を踏めたのは良かったと思っています。ハングリー精神じゃないですけど、もっともっとうまくなりたいという強い思いも生まれました。